全集中の登山
今年やりたいと思い描いていた計画。どこかで一ヶ月位、とにかく山ばかり行ってみようと。
もし余命があと一ヶ月だとしたら?半年だとしたら?という質問を自分にしてみたとき、何が思い浮かぶ?あるいは、自分が一番幸福と感じるのはどんな時、誰と何をして、どんな体験や感覚を得ている時?
それが一番やりたいこと、優先度高くやった方が良いこと。つまり幸福マウンテンの頂上の景色。
私が頭に思い浮かべるのは、一人山を縦走して歩いているところ。別に稼げもしなければ、何も生み出しもしない。ただただ私が幸せというだけのもの。
そればかりやってみたらどうなるのか。私は何を思うのか。その先には何があるのか。
つまり山を中心に置いて、遊びまくるチャレンジ。戦略はありません。やってみたいから、ただそれだけ。
ただし、仕事を全て休んで、というのではなく、その比率をいつもと逆転させてみようということに。せっかくなら思いっ切りやるしかないでしょう?私なりに全力でやり切りました。
結果:9/23~10/13の3週間21日間
行った山域:八ヶ岳、朝日連峰、那須温泉、白山
内訳:山行12日間、休養1日、仕事8日間
まずまずのお天気に恵まれ、好きな山に行くことができました。かすり傷と日焼けだけで、あとは無事。やり切った体はますます絶好調。
(ブログの更新はこれから…いろいろ滞っております。)
あるものに気付く
今回、山登りばかりしていて、ハッと気付いたこと。「足りないものがあるからこそ満たされる幸せを感じられる」のだ、ということ。
この3週間、めちゃくちゃ幸せで大感動の連続だったけれど、everyday sundayはツマラナイ…。
とある山小屋で、御老齢の方々が口にしていた「私たちはもうeveryday sundayだから。」という言葉。仕事は引退していて、いつでも好きな時に山に行ける、そしていつ帰るかも自由、という意味だった。
たまたまお天気が良い山行が高濃度で連続しただけで実際の私の状況とは違うのだけれど、私は今回それに近いような感覚に。すごく楽しかったけれど、いつも確実に欲しいものが何でも自由に手に入るというのは、果たして幸せと言えるのだろうか。一瞬は幸せそうだけれど、幸せが当たり前になったらそれはもはや普通で、何も感動しなくなるのかもしれない。
例えれば、お腹が空いているからこそ美味しくご飯を味わえて、ご飯のありがたさが実感できるのであって、既に常に満腹なら何も味わうことが出来ない。
足りないものが “ある” ということが、幸せの重要な一部なのだ。
人生は山
山に行きたいのに行けない!悔しい悲しい!この世の終わりだ!とか、そういう状況や思いは実は感動のための必要不可欠要素。ある程度の制限制約は演出として捉えて楽しんで行けば良い。むしろ好きなバランスで自ら演出していけば良い。感動とセットなのだから。
東洋哲学の陰陽思想、「すべての存在は、相反するふたつの性質を持つものの調和から成っている。」
陰があるから陽があり、どちらもあるもの。どちらが良い悪いではなくて、お互いが必要な構成要素。苦手があるから得意があるし、弱みがあるから強みがある。
感動と苦労は陰陽だ。山頂へだって簡単に辿り着けたら何も面白みはなく、苦労して行くから感動するんだ。
悔しさも悲しさも、満たされる喜びも生きている幸せも、私の全てを背負って、幸福の山脈を縦走して歩こう。
人生は山。
やっぱりこれだった。
その他。休まないと疲れる。当たり前。ちゃんと休みましょう。もう20代ではないことを忘れないように。
感謝
この計画が実行出来たのは、家族や仲間、クライアントや山で出会った素敵な方たちや、私に関わる全ての皆さまのお陰様。私を山に連れて行ってくれたこの体と心。そしてその私を迎え入れてくれた大自然の山々に大いなる感謝を込めて。
これからもやりたいことやって生きていくぞー!